宝生寺   光明山 弥陀院


宝生寺山門

~400年の法燈~


宝生寺の歴史(「広島県史」及び宝生寺所蔵文書による)

◆ 「万福寺」から「宝生寺」へ ◆

 「万福寺」は、天正年間(1573~1593)、宥伝僧正により現在の三原市大和町下徳良3043番地に建立されました。慶長年間(1596~1615)初頭に何らかの原因で堂宇が焼け落ち、当地へ移転したものと思われます。移転の際、寺跡地に万福寺のあったことを伝えるためか、岩に梵字キリクの下に「仙阿」と刻んだものがあります。梵字は真言宗を象徴するもので、キリクは本尊阿弥陀如来の梵字でもあり、これは宝生寺の本尊阿弥陀如来と一致します。また、宝生寺には「万福寺」の銘がある茶釜が保存されており、本尊像・諸仏像はほとんどすべてが万福寺からそのまま移譲されたものであろうと思われます。こうしたことからも、「宝生寺」は「万福寺」の法燈を正式に継承した真言宗寺院であると言えます。
  高野山龍智院の在阿上人は、慶長3年(1598)、新たにこの上徳良の地で本堂・庫裏の建立に取りかかり、元和2年(1616)、真言宗「宝生寺」が誕生しました。



◆ 当地民の心の拠り所として ◆

  宝生寺は、正式には「光明山 弥陀院 寶生密寺」といい、真言宗泉涌寺派の一寺院です。400年もの歴史の中で、盛衰の荒波を幾度となく経てきました。
 そもそも徳良(得良)は、五穀豊穣の地として足利尊氏の時代から注目されてきました。それは尊氏が尾道浄土寺にこの地の地頭職を寄進したことからもよく分かります。江戸時代には、宝生寺は浄土寺の末寺として、徳良の70俵もの米を毎年尾道浄土寺に奉納していました。
  江戸時代の徳良の人口は少なく、宝生寺の参詣者は地頭職、寺社奉行役人、庄屋の人々などのみで、礼儀的に公に祈願するだけでした。したがって、宝生寺の維持には庄屋(両徳良)の力が大きかったであろうことがうかがえます。いずれにせよ、歴代住職による法施・布教と寄進者による十分な施米によって、宝生寺はその法燈を保って参りました。
  そうした中、「天明の大飢饉(1782~1788)」により、多くの住民が飢餓に苦しみながら命を落としました。天明8年(1788)、当時の庄屋児玉喜八氏は本堂前に宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建立し、住職と当地民による慰霊と供養の法要を捧げてきました。
 また、宝生寺は学びの場としての役割も果たしてきました。江戸時代に寺小屋が開かれ、第五世宥典の頃より、当地の百人近い児童や手習人の教育にあたっていました。そして明治八年、当地最初の小学校である神田東小学校の元となる「宏規舎」が建てられた際、宝生寺の当時の住職諦応がその初代校長を務めております。



◆ 法燈を継承し新たな法悦へ ◆

  本堂は、平成3年(1991)の台風19号により全壊し、平成6年(1994)に新本堂として落慶、また庫裏は、平成16年(2004)の台風18号により屋根が大きく破損したため、平成18年(2006)に新庫裏として落慶しております。
 このように、宝生寺に現存する本堂をはじめ庫裏、中庭の諸仏像に至るまでのほとんどが、第11世弘全の代に再建・建立されたものです。それまでの宝生寺にはない大きな隆盛を示したという点で、弘全はまさに「宝生寺 中興」と呼ばれるにふさわしい住職であり、またその寄進者である檀信徒もそれに適った布施者でありました。
 万福寺から宝生寺へ、そして現在に至る450年もの仏法継承の重みを感じつつ、また新しい寺院の在り方を模索しながら、檀信徒と共に、宝生寺のさらなる隆昌のために、仏法の悦びを求めて参ります。


『念ずれば花ひらく』石碑
元旦祭ライトアップ
元旦祭 本堂にて合掌
門前 アマビエ